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ヴァン=スライクが自らの生涯を語る

英文タイトル:The Life of Donald D. VanSlyke as Told by Himself


血液ガス関係の頁を眺めて、アメリカ生化学会が百周年記念行事として古い論文を掲示していますが、そこにヴァン=スライク(Van Slyke, D.D.1883-1971年、敬称は略します)のオリジナル論文がありました。(http://www.jbc.org/cgi/content/full/277/27/e16) さらにそこからたどって、これに関係した記事が大量にみつかりました。さすがに広範囲の業績を挙げた人と感心しました。
ヴァン=スライクの業績で一番有名なのは、血液ガスを真空で抽出して含量を測る「含量測定法」で、現在実行することは稀れとしても相変わらずゴールドスタンダードです。それを提示している論文自体も公開されていますが、亡くなる少し前の1969年にインタヴューしたビディオの記録をRosenfeldという生化学者が詳しく紹介している記事(www.clinchem.org/cgi/content/full/45/5/703)が興味津々でした。インタヴュー自体は、Olch 氏という(引退した)外科医兼病理学者が担当しています。 この記事を中心に、ヴァン=スライクの生涯を追ってみます。
冒頭に、Rosenfeld 自身がヴァン=スライクと会話した経験を述べています。1960年エジンバラでの第4回国際臨床化学学会で、たまたまレストランでみかけて、一緒のテーブルについた由で、学会前にヴァン=スライクがドイツのある施設を訪れて「ああ、あなたってまだ生きてらしたのですか」と言われたのを面白がっていたとか。
この感じはわかります。1960年はそろそろ電極の時代で、1920年代初頭に開発されたヴァン=スライク法はすでに「古典的手法」となり、考案者も歴史上の人物と認識されたのでしょう。筆者(諏訪)自身、1970年頃には活発に血液ガスを測定し勉強もして、ヴァン=スライク法も知っていましたが、まだ元気に活動中とはまさか認識しませんでした。有名な教科書(rf1 ) の改訂版を1966年に購入していますが、その時すでに「古典を手に入れた」意識でした。

生い立ちからロックフェラー研究所まで
以下は、インタヴューでヴァン=スライクが自分の生涯をふりかえった記事です。
生まれはニューヨーク州のPike という田舎村で、父親はミシガン大学の教官(講師)でしたが、母親はニューヨークの実家に戻って出産しました。その後、ハワイ、ミシガン、ニューヨークと動き、父親がミシガン大学教授になって落ち着き、自身もミシガン大学で化学の学位をとって卒業後、ワシントンで農業関係の役人になり、それから半ば偶然の経緯でロックフェラー研究所のLevene の下で働きはじめます。
ヴァン=スライクの回想によると、当時のアメリカの大学では「アメリカ人の教授」を優先する気風が強かったが、研究所の運営を担当したフレクスナーFlexner は優れた洞察によってその風潮を逆に利用して優秀な外国人を積極的に集め、その中にはカレル(Carrell:血管吻合や臓器移植で名高い、1912年のノーベル医学賞受賞者、フランス人)やメルツァー(メルツァー-リオン法、ロシア人)、それに野口英世がいて「まるでmenagerie (動物園)だった」と述べ、さらに野口について「感染性脳障害が梅毒スピロヘータによることを発見した」とわざわざ付言しています。恩師のLevene もロシア人だったそうです。ちなみに、フレクスナーは赤痢のフレクスナー菌に名を残す研究者ですが、この少し前の1900年代初頭にアメリカの医学教育の統一的なルールを作って、抜本改革を成し遂げた人でもあります。
Levene の下で7年働く間、1911年にベルリンのEmil Fischer(1902年のノーベル化学賞受賞者)の下に数ヶ月派遣してもらって勉強したのを得がたい経験としており、ほんの数日だが教授の私的研究室で実験をさせてもらった際に、どんなことも定量的に(量をきちんと測って)行ったのが印象的だったと強調しています。Emil Fischer はアニリン色素・糖質の研究・たんぱく質とアミノ酸の関係など業績が多く、医学の領域でも尿酸・カフェイン・キサンチン・テオブロミンなどの構造を決定した大有機化学者です。

臨床化学の創始とガス測定法の開発
ロックフェラー研究所へきて7年後に病院ができ、ヴァン=スライクは病院の化学部門を担当することになり、これがその後の生涯を決めました。それまでは有機化学の研究者でしたが、その後は人体つまり医学の勉強が必要で、基本的に「二重生活を強いられて大変だった」と述べています。
そういう激しい生活をしていたところに、サンフランシスコからアディス(腎臓病診断のアディス数の開発者)がやってきて、フレクスナーに「このままではヴァン=スライクはくたびれてダメになる」と助言すると、フレクスナーはすぐさま行動して「ヨーロッパで一年休んで来い」と命じ、フランスのグルノーブルで一年過ごしました。それが1929年のことで、それまでの10年間に書きかけていたピータース(Peters:イギリス人だがエール大学教授、腎臓の専門家) と共著の本(上述のrf1)を仕上げました。
回想では、「当時、生化学者はすでに多数いたが、病院で働いていた人はほぼゼロで、自分が臨床に一番近かった」、また「定性的でなくて定量的な研究を中心としたのも、それが関係するかもしれない」と述べています。
病院で働き始めたのは1910年代の終わりで、インスリン発見以前です。当時の糖尿病治療は今から考えるとデタラメで、昏睡になる前に強いアシドーシスの起ることがわかっていませんでした。そうした酸塩基平衡の分析に[HCO3-]の測定が是非必要となり、ガス測定法(いわゆる「ヴァン=スライク法」)を開発し、これによって糖尿病重症化の初期に[HCO3-]が低下することがわかり、死亡率の引き下げに成功したそうです。

友人たちと寄付金のことなど
ヴァン=スライクには科学面の友人が多数いましたが、その中でヘンダーソン(Henderson LJ:ハーバード大学生理学教授、ヘンダーソン-ハッセルバルフの式で名高い)について、「研究室で活動するよりは思索の人」と述べ、こういう思索タイプの研究者の成功例は少ないが、ヘンダーソンは例外の一人としています。ところで、それに関連して面白いエピソードを紹介しています。ヘンダーソンの私的な研究室の運営に5000ドルほど必要と聞き、ヴァン=スライクもそこを少し使わせて貰った恩義があるので、ロックフェラー二世に「その5000ドルを提供してもらえないか」と頼んだそうです。ところが、ロックフェラー二世は「5000ドルならヘンダーソンが自分で何とかするさ。もし5百万ドル必要というのなら考えよう」と回答した由。
Peters との共著の教科書に関しても詳しい回想があり、Peters 自身は絵が得意で本の中の図を何葉も自分で書いていること、改訂の際にヴァン=スライクは忙しくて十分にできなかった点を後悔していること、それにしてもPeters の議論好きには時に辟易させられたことなどを楽しげに述べています。

自分の研究史
自身の研究をふりかえって、一番いい仕事と評価するのは酸塩基平衡の研究だと断言しています。理由は、この領域は当時まったく何も知られていなかったのに、自分が開拓してしっかりと基礎を築いた故というのです。電極時代になって酸塩基平衡を学んだ筆者にはわからない点も多いのですが、"Alkali Reserve"の概念はヴァン=スライクが打ち立てたもので、「血液中で酸を中和するのは重炭酸イオンが中心」という意味と解釈できます。
それと関連して、自分には医師の資格はなかったが、さいわいにして優れた仲間に恵まれたので不便はなかった、医師となるに必要な時間を考慮すれば医師にならなくてよかった、しかし自分のことを腎炎の権威だったと思っていると述べ、さらにアムステルダムとオスロの大学から名誉医学博士号を受けたのを喜んでいます。
何故生涯ロックフェラー研究所に留まったかとの質問に対して、いろいろ話はあったが、ロックフェラー研究所の「自由」を選んだ、特に自分の出身校のミシガン大学から、医学部長兼生化学教室教授として招聘された時は、育った場所へのセンチメンタルな気分も含めて心が動いたが、管理運営に煩わされたくない気持ちで結局思い留まったと言っています。それと関連して、ロックフェラー研究所が大学になったことのマイナス面を指摘して残念がってもいます。
最後に、「生物の見方」あるいは「生命観」についてこう述べています。ロックフェラー研究所ではレーブ(Jacques Loeb:有名な生理学者、もともとドイツ人なので「ロイブ」とも)がいわば「顔」の一人でしたが、これに関係して「生物学者にはレーブ派とホールデン(J.S.Haldane:オクスフォードの呼吸生理学者)派がいる。レーブ派は生命現象を物理と化学で全部説明できるとの立場をとるのに対して、ホールデン派は生命現象には固有のものがあって物理と化学では説明不可能な部分が残るとの立場だ。物理学の領域で、アインシュタインが自然は全部解決できると考えるのに対して、ボーアが不明の余地が残ると考える対立と似ている」というのです。ヴァン=スライク自身がどちらの立場をとるかは明らかにしていませんが、ホールデンの立場と推測します。ちなみに、前述のヘンダーソンは「人体生理は数式で記述できる」と主張したという有名な話があります。

ヴァン=スライクの回想だけで頁が尽きました。他にも、「1945-55の10年間でもっとも引用の多かった人名はヴァン=スライク」という報告(www.garfield.library.upenn.edu/essays/v12p101y1989.pdf )には引用数1200という数が載っており、またヴァン=スライク死去の折に弟子の Hastings が書いた追悼文( www.clinchem.org/cgi/reprint/17/7/670)によると、ヴァン=スライクは65歳でロックフェラーを引退してブルックヘブンに移ってから、亡くなる88歳までに論文を50編近く発表している由です。同じく Sendroy の追悼文(www.clinchem.org/cgi/reprint/17/7/670) にも興味深いものがあります。ヴァン=スライク自身の、特にガス測定の論文は本誌に紹介する価値があるでしょう。いずれ機会を探しましょう。

[諏訪邦夫]

参考文献
Peters JP, Van Slyke DD. Quantitative Clinical Chemistry, 2 vols, Williams Wilkins, Baltimore, 1931.

写真:晩年のポートレートでインターネットのいろいろなところに掲示されている。
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