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肺の酸素摂取が拡散と確立するまで

英文タイトル: Diffusion theory of oxygen uptake. Mechanistic approach from Fick to Krogh.

20世紀始めに、ボーアとクローとの間に、肺ガス交換をめぐって「分泌説」と「拡散説」の論争があり、もちろん後者が勝利して決着がつきました。これについて、その経緯だけでなくて、何故こんな論争が起ったのかの背景を詳細に説明する論文がみつかったので紹介します(ref 1)。エジンバラのAgutter という方が書いたもので、"Journal of History of Biology "という雑誌に論文が載っているものですが、全文がインターネットに公開されています。(http://www.jodkowski.pl/prywata/Diffusion.pdf)
この論争については、これまでは「そんな論争があった」との事実を知っていただけでしたが、この論文を読んで、他の人たちの関与がわかり、さらに生物や人体のメカニズムをどう把握するか、いわゆる「生気論」と「機械論」の対立も含んでいると教えられた点が、私には新しい発見でした。

19世紀後半は「人間機械論」の時代?
今からみると少し想像しにくい面もありますが、19世紀後半から20世紀初頭にかけては「人体のメカニズムは機械として把握できる」、「物理学と化学で説明できる」という「人間機械論」の考え方がなかなか有力だった時代だったようです。その先頭に立った一人がフィック(Fick A:1829-1901)で、この人は「フィックの原理」で名高く、これは41歳の1870年に発表されています。その2年前にWurzberg 大学の生理学教授になったばかりで、いわば少壮教授の業績です。
ところで、それより15年も前の1855年、実に26歳の時に今も自分の名前がついて呼ばれる「拡散の法則」を発見しています。「原理」と「拡散の法則」が、いずれも「フィック」という名のついていることは知っていましたが、それが同一人物と私が知ったのはわずか数年前で、それまでは別人と思っていました。一方は生理学、もう一方は物理学の法則だからです。「拡散の法則」の論文は東大にマイクロフィルムがあり、「膜の拡散は生命の基本現象でもあるが、物理学者にとっても重要な問題だ」という書き出しで始まり、読み進むと拡散でお馴染みの偏微分方程式が多数登場します(ref 2)。そこの部分には、「フーリエの熱流の理論を使った」とも書かれ、また例として血管からのガスの拡散云々という説明もあります。フィックはその1年後に、『医学物理学』を著述しており、こちらは現物をみることはできませんでしたが、大きな本のようです。いずれにせよ、どの著述も「人間機械論」の立場を表現しています。Agutter 氏の解説では、フィックはそもそも物理学者になるつもりで大学に入って途中で医学に転じたとあり、拡散の論文を読んだ時に偏微分方程式の羅列に驚きましたが、そうした背景を知れば納得できます。
ところで面白いのが、このフィックがルードゥヴィッヒ(Ludwig C:1816-1895) の下で長く修業した事実です。ルードゥヴィッヒは、弟子のマイヤー(Meyer JL:1830-1895) の『血液ガス』という著作に刺激されて自分もこの領域に踏み込んだとされていますが、元来は腎臓の研究者で、生気論、つまり「生命には、物理や化学では説明できない独特のメカニズムがある」という立場を維持してきました。「腎臓の研究者」だったことが、「生気論」を保持させたのだろうとAgutter 氏 が推測しているのは、腎には糸球体ろ過物質の一部を再吸収するメカニズムがあり、それは拡散では説明できない故です。ルードゥヴィッヒは、この立場で「肺での酸素摂取は肺胞から毛細管への分泌」と主張します。根拠は気相と液相の分圧の比較ですが、その測定の精度が悪く、間もなくプリューゲル( Pfluger E:1828-1910) の精度の高い測定で、一挙に否定されます。
機械論をとるフィックを15年も手元において、拡散法則を発見させ医学物理学の本を書かせたルードゥヴィッヒの度量の広さに少し感心します。

ボーアとクロー:ホールデンの参加
プリューゲルの測定で一応決着がついた見えた論争が、実はそれで終わりませんでした。ルードゥヴィッヒの弟子のボーア(Bohr C:1855-1911)が、再び「肺での酸素の分泌」を蒸し返したからです。ボーアは、名前のついた業績が三つもある(「死腔に関するボーアの式」、「酸素解離曲線に対するボーア効果」、「肺毛細管での酸素分圧の上昇過程を解析するボーア積分」)大研究者でしたから、再反論に力があったわけでしょう。最初の論文(ref 3)は「死腔に関するボーアの式」の提示で名高いのですが、実は死腔の計算に使用したのではなく、気道容積を形態学的に計測して死腔容積とし、それから逆算で「肺胞気酸素分圧」を求めるのに上記の式を使い、これによって「肺での酸素移動は分泌による」と結論しているのが論文のポイントです。何十年も前に、30頁ほどのこの論文を読んで、最後の結論に仰天したのを思い出しました。
クロー(Krogh A:1874-1949) はボーアの弟子で、ボーア効果の論文に著者として名を連ね、独特の精度の高い測定法を開発して貢献した由です(ref 4)。しかし、その後もボーアの下で研究を続ける過程で次第に分泌説に疑問を抱き、1910年に分泌説を決定的に否定します(ref 5)。それには、恩師ボーアに背くことの苦しさが表明されています。また、ここで妻のマリーと共同で開発した一酸化炭素吸入による肺拡散能の測定が役立ちました。ちなみに、この肺拡散能測定はこの時点では研究手法に留まり、臨床導入は40年も経った1950年頃のことでした。
ボーアはすぐ1年後の1911年に亡くなったので、そこで決着がついたようなものですが、そうはなりませんでした。もう一人の大生理学者ホールデン(Haldane JS:1860-1936) が、分泌説を引き継いだ故です。Agutter によると、ホールデンはイギリス人で1895年にコペンハーゲンまで出かけてボーアと会見し、その考え方と精緻な分析の両方に感心したと言います。ホールデンは、間もなく二酸化炭素の呼吸刺激作用を唱える大研究者 (ref 6) ですが、その後も高山での研究その他を経て分泌説を主張し続け、亡くなる直前の1935年に出した教科書の第2版でも1章を割いて分泌説を精密に解説しています(ref 7)。この教科書が、何故か東京大学医学部麻酔学教室の図書室にあって読んだ記憶があります。
一方、同じイギリス人で酸素解離曲線の解析で名高いバークロフト(Barcroft J:1872-1947) がこの分野に手を伸ばして、拡散を支持する証拠を提出している由です。
本シリーズの第9回で、ロックフェラー研究所ではレーブ(Loeb J:1859-1924. もともとドイツ人で「ロイブ」とも)がいわば「顔」の一人で、「生物学者にはレーブ派とホールデン(上記)派がいる。レーブ派は生命現象を物理と化学で全部説明できるとの立場をとる」というヴァン=スライクの「生命」についての見解を紹介しました。今回の論文によると、レーブはフィックの弟子で、その立場の書物を後に出版しています(ref 8)。

能動輸送の発見の意義
体内で物質が分泌され、吸収されることは19世紀にすでに一応判明しており、その現象がルードゥヴィッヒやボーアの考え方を生みました。しかし、この問題が細胞から分子レベルで判明したのはずっと下って1940年代で、皮肉なことにクローの弟子のユシング(Ussing HH:1911-没年不明)の業績であり、しかもクローが導入した同位元素の使用による分析を使っている(Ref 9)、とAgutter 氏は紹介します。ユシングは、コペンハーゲンからロックフェラー研究所に移って上記の業績を挙げた後、故国に戻ってクローの後のコペンハーゲン大学生理学教授になりました。
ユシングが能動輸送を明らかにしたにもかかわらず、その時点では肺のガス交換は拡散によると確立したとみなされ、誰も疑問に思わずそのままになっています。しかし、本当に拡散で間違いないのか、フィックの拡散の法則は無限の広さを仮定して成立するので、細胞膜のように狭い範囲では大幅な修飾が必要なはずで、また組織での酸素拡散を示すクローの円柱モデルの計算にも間違いや疑問が指摘されていると述べて、Agutter 氏は拡散説から距離をおく立場を示しています。"A Relic of Mechanistic Materialism "(機械論的物質主義の名残り) という副題を論文につけているのもその気持ちの表明と解釈します。
現時点で、酸素レベルが細胞膜や内部の化学反応に影響するメカニズムがいろいろ判明していますが、エネルギーをつかって酸素を移動するメカニズムは見出されていません。それが登場するまでは、Agutter 氏の懸念は積極的な根拠なしと暫定的に結論しておきます。
[諏訪邦夫]

参考文献
1. Agutter PS. Diffusion theory in biology: A relic of mechanistic materialism. J Hist Biol 33: 71-111, 2000.
2. Fick A: Ueber Diffusion. Ann Phys 94:59-86. 1855. (註:"Phys"は"Physik"物理学)
3. Bohr C. Ueber die Lungenatmung. Skand Arch Physiol 2:236-268. 1891.
4. Bohr C, Hasselbalch KA, Krogh A. Ueber einen in biologischer Beziehung wichtingen Einfluss, den die Kohlensaeurespannung des Blutes auf dessen Sauerstoffbindung uebt. Skand Arch Physiol 16:402-412.1904.
5. Krogh A. On the mechanism of gas-exchange in the lungs, Skand Arch Physiol 23: 248-278. 1910.
6. Haldane JS, Priestley JG. The regulation of the lung ventilation. J Physiol 32: 225-266. 1905.
7. Haldane JS, Priestley JG. Respiration 2nd Ed. Oxford Press, 1935.
8. Loeb, Jacques. The Mechanistic Conception of Life. Cambridge MA. 1912. Harvard University Press (reprinted 1964).
9. Ussing HH. The distinction by means of tracers between active transport and diffusion. Acta Physioll Scand 19: 43-56. 1949.

図 分泌説と拡散説を闘わせた5人の研究者、ルードゥヴィッヒ、プリューゲル、ボーア、クロー、ホールデン
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