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ペルーズとヘモグロビン

インターネットでみる『呼吸器』その4 ペルーズとヘモグロビン、研究所開設

インターネットには、いろいろな講演やエッセイが掲載されています。その一つがノーベル賞関係で、受賞講演を含めいろいろなものが読めます。通常の学術論文と異なり、研究者の仕事を「まとめて紹介」しているので、一つ読めばその人が何をどうしたかがわかります。呼吸器関係の人は多くはありませんが、範囲を広げればけっこうみつかります。例としてペルーズ(Max F. Perutz) のものを要約して紹介します。ペルーズはヘモグロビンのX線解析で大きな業績を挙げてノーベル賞(1962,化学賞)を受けましたが、背景は知りませんでした。

受賞の紹介の文章はhttp://www.nobel.se/chemistry/laureates/1962/perutz-bio.html

受賞講演はhttp://www.nobel.se/chemistry/laureates/1962/perutz-lecture.htmlにPDFファイル形式で、

受賞時のバンケット講演は http://www.nobel.se/chemistry/laureates/1962/perutz-speech.html

さらに、受賞時の講演ではなく、ずっと後に書かれたエッセイが

http://www.nobel.se/medicine/articles/perutz/index.html

として掲載されており、以下の文章では以上を参考にしてまとめています。

生い立ちから仕事が軌道に乗るまで

ペルーズは1914年にオーストリア生まれました。織物業経営者として成功していた親は法律を学ばせたがりましたが、本人は化学が好きで家庭教師が両親に勧めて、ウィーン大学で化学を学び、大学卒業後に学位をとるべく、当時化学のメッカの一つであったケンブリッジ大学の大学院に入りました。(1936年22歳)

当初は豊かな父親が学資を提供していましたが、間もなくオーストリアがヒトラーに併合されて父親の会社が取り上げられてしまい、親も難民になって奨学金が途切れますが、ここで好運に恵まれます。所属したキャベンディッシュ研究所の所長は、最初はRutherford(原子核の発見者)で、Perutz の所属したが結晶学部門はごく小規模で影が薄かったといいます。

ところが1937年にRutherfordが亡くなり、X線解析の創設者Bragg があとを継ぎました。この人は父親と一緒に結晶のX線解析で1915年のノーベル物理学賞を受けた人です。Bragg自身は物理学者で、手法の適用範囲も無機物質に限っていましたが、当時ようやく話題になりはじめてたんぱく質に適用を広げるというペルーズの狙いに関心を示し、丁度奨学金がなくなって帰国か方向転換を考えていたペルーズに、ロックフェラー財団から補助金を受けるように計らい、これで研究生活を維持できました。ロックフェラー財団の補助金は個人用にはすぐに途絶えましたが、研究に対しては60年代半ばまで続き、後にできた分子生物学研究所の成功に重要な働きをしていた由です。ペルーズはこのまま生涯ケンブリッジ大学で研究を続けて、2002年で87歳で亡くなっています。

ずっと以前、ペルーズのX線解析の論文をいくつか読んだ頃、「この名前(語尾がtz)からみるとドイツ人のようだが、何故戦後のイギリスで研究業績を挙げたのか」と不思議に思った記憶があります。今回、ヒットラーのオーストリア侵攻が長期的には好運に働いた点を知り、ヨーロッパの国同士の近さと研究の幅広さや進み方の面白さに改めて感心しました。

ヘモグロビン分析の開始

X線解析開始当時の経緯を、ペルーズはこう述べています。

「当時、細胞内の化学反応はすべて酵素で触媒されていると判明したところであった。その酵素は全部たんぱく質であり、しかも当時は遺伝子もたんぱく質と考えられていた。しかし、たんぱく質は構造がほとんどわからず、まして作用メカニズムは全く不明で、いうなれば『たんぱく質はブラック・ボックス』であった。だからこそ、その構造解明は生物学の中心課題で、X線結晶解析はこれを解く随一の方法だった。」

ヘモグロビンは、手に入りやすく使いやすく、しかもすでに19世紀後半には結晶化されて純粋物質になっていた数少ないたんぱく質の1つです。ペルーズが最初につかったヘモグロビン結晶は、酸素解離曲線の分析で名高いAdair が作って提供したと書いてありますが、Adair のこの仕事はボストンで1925年頃に行われており、この1930年代の終りのAdair の協力が海を隔てたものか、ケンブリッジ周辺にいたのかは不明です。ペルーズは「ケンブリッジ呼吸生理学者Barcroft のジョークだが、当時ヘモグロビンに関する情報は切手の裏に書けてしまう程度しかなかった」とも書いています。

「ヘモグロビンが構造の明確な回転楕円体と証明したのが私の最初の研究成果で、当時たんぱく質とは羊毛みたいなモジャモジャしたコロイドという通念を破る、新しい概念であった。ヘモグロビン分子では二つの同一構造体が向かい合い、その間には水や電解質が入りこめない点まで判明した。」というところまで進みます。

もう一つの好運

順調に滑り出したヘモグロビンのX線解析ですが、キャベンディッシュ研究所は有機化学が強くないし、それにロックフェラーの奨学金も切れて困ります。今度はKeilin という別の研究者が手を差し伸べます。この人はチトクロームの発見者で、当時は別の研究所の長でしたが、チトクローム発見者ですから当然同系のヘモグロビンの分析に興味を示し、ペルーズ(と当時研究を開始したKendrew)に研究所のスペースを提供しました。

そのKendrewとの協力も好運というべきでしょう。ペルーズに従ってとX線解析を開始したのは戦争の終わる1945年で、その時点のペルーズにはとりあえず上記の「ヘモグロビンは回転楕円体」という発見はあっただけでした。Kendrew に至っては、胎児と成人のヘモグロビンの構造が違うはずという仮説で研究を開始しましたが、当時のX線解析のレベルからみると野心的過ぎて成果が挙がらなかったそうです。そのKendrew はペルーズと一緒にノーベル賞を受けています。

分子生物学のための研究所の設立

Keilin は当時の医学審議会(MRC:Medical Research Council:アメリカのNIHに相当)の会長と親しく、Bragg をここに仲介しました。これを契機に急激に展望が開け、1947年10月にペルーズとKendrew を中心に「生物学的システムの分子構造の研究のための研究所」をMRCが設立しましたた。当初は二人だけでしたが、このテーマに優秀な若者が魅かれて、まずCrickが、ついでHew Huxley とWatsonが加わります。さらにBrenner(南アフリカ出身)とIngramが、さらにアメリカからも優秀な研究者が加わりました。

1956年まで、あちこちに研究場所を借りて使っていましたが、人数が多くなったのでなんとか自前の研究所を作ろうとプランしはじめます。しかし、この時点ではペルーズの研究も「面白い」とは思われても、目立った成果ではありません。さらに、ペルーズの言うには、「WatsonとCrick の提案したDNA複製メカニズムにしても、仮説にとどまって評価しない人も多かった」ということです。

1957年、いくつかの事件を契機に状況は大きく改善します。まず、ミオグロビンの構造解析にKendrew が低解像度ながら成功しました。次に、分かれたDNAの2本のらせんが、各々親となって一つずつ別のらせんを合成することをMeselson が証明し、さらにその新しいらせんの塩基配列が、WatsonとCrickの予測通り、親の塩基配列と相補的だという証明にKornbergが成功しました。さらに重要な点として、当時インシュリンのアミノ酸配列決定に成功したSanger が、生化学教室からこの研究所に移ります。

こういうタイミングで、新しい研究所設立の提案は好意的に受け取られ、提案説明のその日のうちに承認されます。

実際の新研究所の建物の完成は1962年2月で、5月には女王来館の下で正式に開所しました。「CrickとBrennerは王室が嫌いで当日は敬遠したが、Watsonはハーバードからわざわざやって来た」とペルーズは書いています。女王に、DNAとミオグロビンの原子モデルを自慢げに見せると、侍女の1人が「身体の中にこんな小さい色のついたボールがあるなんて考えたこともなかったわ!」と叫んだものだ、というジョークも加えています。

発足の時点で、この研究所はペルーズらの構造研究部門、Sanger のたんぱく・核酸化学部門、CrickとBrennerの分子遺伝学部門からなり、現在は新しく神経生物学部門が加わっています。

互いに話し互いに聞く体制

ペルーズは、研究所の所員同士が話し合って刺激しあうことを重視して、こんなことを述べています。

「研究所の運営が失敗に終わる場合、科学者が互いに話を交わさない点が原因となる。そこで、研究所には食堂を設け、アイディアの交換を刺激するべく、朝のコーヒーや昼飯やお茶の時間に、おしゃべりの設備を整えた。この世話は私の妻が20年以上も担当し、おいしい食物と友好的雰囲気に気をつかった。

研究設備は共有が原則で、私有財産として守ることはしないのがルールとなった。お蔭でお金が節約でき、お互いに話しあう習慣もついた。研究所の建設当初、研究費が不足で、何事も秘密にしないで乏しきを分かつシンボルとしてドアに鍵をかけずにおいた。それまで、大学で教授にアクセスするには、秘書のオフィスを通さねばならかったが、私は自室のドアが直接通路に通じ、誰でも直接入れるようにした。

研究所では科学者同士が研究報告のセミナーを開くが、出席者は当の研究者の所属グループに限られがちだ。そこで研究所全体の研究に通暁するようにと、Crickが年に1週間だけ研究所員全員が出席するセミナーを開催し、これが「Crick週間」として確立した。このセミナーでは、Crick が鋭い質問とコメントで会をリードするのが常で、彼がラホヤ(カリフォルニア州サンディエゴ郊外)のソーク研究所に赴任すべくケンブリッジを去った日のことは悲しくて忘れられない。」

このCrick の話も面白く感じます。王室嫌いで議論好きは、二重らせんだけでなくその後のアメリカ移住と中枢神経系研究のイメージとも一致します。

ペルーズ関係の文章に登場する人物でノーベル賞受賞者は、本人の他に、 Bragg, Sanger(2回), Watson, Crick, Kendrew, Brenner、Walker (ミトコンドリアATP-ase発見者:その部分は解説からははぶきましたが原文には載っています)の8人まで確認しましたが、他にもいるかも知れません。

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