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パルスオキシメーターと青柳卓雄氏

青柳卓雄、岸道男、山口一夫、渡辺真一.イヤピース・オキシメーターの改良 技術と人間(第13回日本ME学会大会資料集) 1974, Pp90-91.

西澤潤一先生の講演から

1998年末の日本麻酔・集中治療テクノロジー学会で、半導体の大御所西澤潤一先生が「医学と工学の境界領域の研究と今後の方向性」というタイトルで講演され、その中で『ボロ器械を使うからこそ、いい仕事が出来る』と言い放ちました。よくできた器械は、商売になるので生産量も多く独創的な仕事はできにくい、独創的研究には装置自体もつくれとの主張です。

この講義の後半は「日本にも独創的研究は多数ある」との例証で、明治以降の日本の科学を評価したリストを挙げた詳しい説明でした。トップに出たのが本シリーズにもあったエフェドリンで、1880年代の日本で発見され、今日も使う薬物です。

西澤先生が『医学系の研究が最近はない』と主張したので、『パルスオキシメーターを忘れちゃ困る』と発言したくなりましたが、特別講演に異議を申し立てるのも非礼と遠慮しました。

人命救済の数という尺度

日本の医学研究の中で、“実用性の広さ”“人の生命を救った数”という尺度でみた時に、青柳卓雄氏によるパルスオキシメーターの原理の発見と試作は大変な業績と言えましょう。

致命的麻酔事故の発生は、1950年代には2000件に1件でした。それが現在では10万件に1件です。日本の麻酔件数は、年間200万件位ですから、この40年間に死亡数は年間に千人から20人位に減っている計算です。

ここで全部パルスオキシメーターが大きな役割を果たしているいるのは確かです。一方で、麻酔以外の医療の分野でパルスオキシメーターが助けている数も随分あります。世界中で数えるとこの10倍~数十倍、つまり1万人とか数万人の人を救っていることになります。

麻酔やICUや肺機能障害の状況で、ハイポキセミアを認識するには、基礎の肺生理学を勉強し、さらに何回か動脈血Po2 を測定してやっと理解するものでした。「海面レベルで空気を吸ってハイポキセミアになるはずがない」が当時の平均的な医師の認識だったからです。しかし、パルスオキシメーターなら患者につけてみればハイポキセミアの存在はすぐにわかります。従来1年も2年もかけて勉強したことが、使用初日にわかるようになりました。

原理こそ偉大

ここに紹介するのは、パルスオキシメーターに関する青柳氏の最初の発表で1974年の春のME学会の抄録です。内容はかなり充実していて、大きな版型で2頁あり、計算式と原理と装置の図も載っています。日本光電は、日本の特許はとりましたが、直後に同様な特許を申請したカメラ会社のミノルタが、アメリカを含めて外国の特許をとしました。日本光電は試作品を作っただけでしたが、ミノルタは製品化しました。

発明には、原理が重要なものと製作時の技術展開が重要なものと、2種類あります。ワットの蒸気機関・ベルの電話・エジソンの白熱電球はいずれも原理自体が重要で、その後の技術展開にも結びついています。一方、コンピュータを19世紀半ばに考えたバベッジは偉いけれど、現代のコンピュータとは無縁です。18世紀に雷が電気と発見したフランクリンは「電気による調理」を提案していますが、電子レンジ開発にはつながっていません。

パルスオキシメーターの原理は、「動脈血が血管内で脈動する」との事実に基づきます。それが現在の段階に到達するには、原理だけではなくて技術展開、具体的にはディジタル回路の採用と、光学系の改良(発光ダイオードと光センサーの使用)が重要な役割を果たしました。しかし、技術展開の部分は時代の必然です。敢えて言えば、日本の科学一般レベルが少し遅れていて欧米に先を越されました。とにかく、数年の違いはあれ、早晩誰かが、どこかの会社が採用したと断言できます。

一方原理は違います。こちらは、時代を超越しています。あれが1970年に発見される必然性はありません。オキシメーターを試作したミリカンが1930年代に発見しても不思議ではなく、22世紀までずれ込んでも不思議ではありません。

パルスオキシメーターの原理は、青柳氏だけが発見の必然性を持ち、その天才が生みました。

自らの認識と悔い

パルスオキシメーターの初期の歴史で、私は自分の認識の甘さをいくつもの点で悔いています。

当時、血液ガス関係の情報を入手しやすい立場にいました。1976年に日本で唯一の教科書『血液ガスの臨床』を出版して、専門家とみなされてもいました。

ミノルタからは早速製品テストの依頼を受け、欠点はありましたが、採血が必要だったパラメーターが無侵襲で連続測定できるのに狂喜しました。早速科学研究費で一台購入しました。総販売台数が100台程度だった由で、せめてもの慰みです。

日本光電の試作製品も認識して、科研費で購入の際に日本光電に打診しましたが、 「自社のものは販売レベルに達していない」と断られました。

ミノルタ製品のテストは鈴川正之先生が直接受け持って発表しました。しかしそれを英文で発表しなかったのが第一の後悔です。英語を書くことは私は苦手ではなく、特にこの際は会社のお世話で優秀な翻訳家が上等の英語を書いていました。

この論文を、何故か英文誌に投稿しませんでした。論文の内容は「装置の使用経験」で一本立ちの原著論文ではなく、わざわざ外国に紹介することもないと感じたのでしょう。

第二の後悔は、「原理の開発者」を追求しなかった点です。青柳氏を世界に紹介したのは、あのセブリングハウス氏です。1980年代の終わりに、Astrup 氏と協力して血液ガスの歴史を執筆し、パルスオキシメーターの項目執筆の際に、千葉大学の故本田良行先生と協力して、原理発見者が青柳氏と突き止め、雑誌と書籍とで世界に紹介しました。

第三の後悔は、パルスオキシメーターの優秀さを認識しながら、「麻酔のモニターとしてキャンペーン」する行動を起さなかった点です。麻酔科医New 氏は、有用性を認識してネルコア社を設立し、パルスオキシメーターを世界に売りまくりました。

私自身が認識を改めるのは、1980年代始めにオメダの製品を入手し、さらにロンドンでの会議に出席した後でした。このロンドン会議の記録がPayne & Severinghaus の編纂になる書籍です。

ついでに恥をもう一つ述べると、私は1974年のME学会(大阪)に出席はしたのに、青柳氏の発表を聴いていません。

1997年の初秋、小児麻酔学会で特別講演されたスエーデンのLindahl氏が「ノーベル賞選考委員の一人」と紹介されました。講演後に立ち上がって、「ノーベル賞に是非推薦したい人がいる」と青柳氏のことを説明しました。Lindahl氏の行動は知りませんが、少なくとも記憶に残して下さっています。

私は大真面目で、ノーベル賞は競争相手が多く無理としても、せめて日本国内の賞は受けて当然と考えていたら、朝日賞のことを年末に聞き、書いてあった原稿に急遽手を入れて差し替えました。

参考文献:

中島進ほか.新脈波型イアピースオキシメーターの性能 呼吸と循環 23:41-45.1975.

鈴川正之、諏訪邦夫ほか。 指尖脈波型オキシメーターの使用経験 麻酔 27:600-606.1978.

Payne JP. Severinghaus JW。 Pulse Oxymetry. Springer Verlag. Berlin.1986.

Severinghaus JW, Honda Y. History of blood gas analysis. VII. J. Clin Monit. 3:135-138. 1987.

Severinghaus JW, Astrup PB. History of Blood Gas Analysis. Little, Brown & Co., Boston. 1987.

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