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エッセイ:フィックについて

フィックの原理:論文の図

フィックの原理

Fick A. Uber die Messung des Blutquantums in den Herzventrikeln. Sitzungs Berichte fur das Gesselshaftjahr1870. (Sitzung am Juli 1870.)Sitzungs Berichteder Physiologishe-Medizinishe Gesselshaft zur Wurzburg 1870;16:1. XVI-XVII

今回の論文は、実は10年以上も入手に骨を折りながらなかなかみつからず、ふとした機会で手に入りました。私(諏訪邦夫)が訳出したコムロウの『医学を変えた発見の物語』に「短い論文として有名なもの」の論文として紹介されており、参考文献リストも載っていますが、それを図書館で調べてもわかりません。東大の医学図書館でわからず、帝京大学医学図書館でも不明でした。今回、帝京大学の八王子キャンパス図書館で判明しましたが、わかってみれば東大の医学図書館にありましたから、前に探した時に何故不明だったのか理由ははっきりしません。ただし、今回はインターネットでいろいろと調べて雑誌の名前がフルスペリングではっきりしていました。それが大きな理由かもしれません。

論文の形式と内容

文章は1頁未満です。形式は、Wurzburg の地方研究会報告で、このフィックのものが1頁弱、もう別の方の猩紅熱の発表が2/3頁程度で合計1頁半です。形式は、この時の司会者が紹介する形をとっていますが、中味は著者自身が書いているのでしょう。

内容は、いわゆる「フィックの原理」を提案したもので、肺で酸素摂取を測定し、動静脈の血液の酸素含量を測定すれば心拍出量が計算できる、ということを数値を挙げて示しています。それだけですから、「発表」というよりは学生に対する講義みたいな雰囲気です。大変に短いので、訳文をそのまま掲載します。

「フィック氏は次の内容の講演を行った。心室が心拍毎に拍出する血液量の測定に関するもので、その測定は疑いもなく重要度の高いものであるが、現時点ではいろいろとひどく外れた見解が出されている。ヤング氏の講演では、安静時の一回拍出量として45ml 程度の数値を示している。一方、新しい生理学教科書はずっと大きな数値を採用し、Volkmann とVierord では180ml という大きな数値を挙げている。こんな状況では、少なくとも動物で直接測定しない限り何とか近いところに到達することはなさそうである。

一定の時間内に酸素をどれだけ摂取し、二酸化炭素をどれだけ呼出するかは測定可能である。さらに動物なら、動脈血と静脈血のサンプルを採取できる。そのサンプルから、酸素量と二酸化炭素量をそれぞれ測定しよう。その酸素量の差は、血液1ミリリットルが肺を通過した際に摂取した酸素量を意味するから、その間に酸素がどれだけ摂取されたかを知れば、肺を流れる血流量が算出できる。もし、心拍数がわかれば心拍一拍当りの拍出量も計算できる。同様な計算は二酸化炭素でも可能で、どちらを使っても良い。

ところで、この方法を使うにはガスポンプが必要だが、現状では残念ながら私の手元では測定が不可能で、実験は行えない。そこで、多少人工的な数値に基いて本法で計算してみよう。ルードヴィッヒの研究室でシェファーの研究によると、イヌでは動脈血と静脈血の酸素量が各々0.146 と0.0905 ml/ml だという。したがって、肺の通過で0.0555ml/ml の酸素が増加する。これがヒトにもあてはまるとしよう。一方、ヒトは24時間で酸素を833グラム摂取する。これは0℃、1000mmHgでは433200 mlで、1秒あたり5mlの酸素摂取である。上に述べた量の酸素を、血液が肺を流れる間に摂取するには、5/(0.0555)ml の血流、つまり90ml が必要である。6秒で7拍とすると、一回拍出量は77ml となる。(本文終り)」

ここで1箇所注意が必要です。フィックのこの文章では、酸素量を0℃、「水銀柱1m」として酸素量を計算しています。833グラムは26モル、通常の標準状態では583.1L、1秒で6.7mlとなります。ところが、圧を「水銀柱1m」として計算しているので、6.7 ml*760/1000≒5.09 ml ですから、これで正しいのです。

なお、この文章に先だって、「前回の研究会の記録が承認された」というような事務手続きが載っていますが、フィックの文章の直前に「レントゲン博士から入会の申し込みを受けた」という記述があります。X線発見は1895年ですから、それより25年も前で、1845年生まれのレントゲンは25 歳です。

フィックの人となりと「拡散の法則」のこと

フィックは1829年生まれ、スイスのルードヴィッヒの下で15年ほど修業して、この発表の少し前の1868年に39歳でこの土地の大学の生理学教授になっており、いわば就任したばかりの少壮教授の発表というところです。この人は、データを整えて論文を発表するより、この論文のように「概念を提唱する」ことが得意だったらしく、これより14年も前の1856年、実に27歳の時に、『医学物理学』という本を出版しています。現物は読んでいませんが、肺の気流や血流の流体力学などを扱っている由です。さらにその1年前の1855年には、有名な『フィックの拡散の法則』を発表しています。

フィックの原理を使って心拍出量を測定する仕事自体は、フィック自身はまったく行っておらず、30年近くも経った世紀末になって Zuntz が発表しています。

今回知ってびっくりしたのは、同じフィックが拡散の法則の発見者でもある点でした。「フィックの拡散の法則」という名前自体は聞いてはいましたが、このフィックと同一人物とはまったく想像していませんでした。「フィックの原理」は生理学の法則で、一方で「拡散の法則」は物理学の法則だからです。もっとも、昔はポアズイユやマグヌスやヘルムホルツなど物理学と生物学の双方に長けた人の例はあります。

「フィックの拡散の法則」は理化学辞典によると二つの法則からなり、

第一法則は「拡散は面積と分圧較差による」という法則、

第二法則は「拡散勾配の時間経過による変化」を与える法則

で、特に後者は偏微分方程式で与えられています。私自身は計算してみたことはありませんが、たとえば酸素電極の振る舞いを正確に評価しようとすれば当然つかうべき法則です。肺の拡散で名高いクローは、毛細管から組織への拡散を詳細に検討して、そちらでノーベル賞を受けており、これにはフィックの拡散の法則が登場します。

今回の紹介を書くにあたってはインターネットでみつかったAcierno の論文が大変に有用でした。著者への感謝の意味と同時に、興味のある方に紹介します。

Fick A: Uber Diffusion. Ann Phys 1855;94:59

Fick A: Die Medizinische Physik. Vieweg: Braunschweig, 1856

Zuntz N, Hagemann O: Untersuchungen uber den Stoffwechsel des Pferdes bei Ruhe und Arbeit. Landw Jh 1898;27 (Erganz. Bd. 3)

Acierno LJ.Adolph Fick: Mathematician, Physicist, Physiologist. Clin. Cardiol. 2000:23: 390-391.

(注:この文章は、2003年発行のAnesthesia Antennaに掲載したものです。)

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